合肥市 (Hefei Shi)
合肥市(ごうひし 、がっぴし、、)は、中華人民共和国安徽省に位置する地級市. 安徽省の省人民政府が置かれる省都で、地域の政治・経済・文化の中心である. 合肥の日本語読みについては、「ごうひ」が一般的であるが、三国志関連では「がっぴ」と読まれる傾向にある.
合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した.
後漢末期に曹操により派遣された揚州刺史の劉馥が整備し、曹操と孫権の係争地となる. 208年、孫権は10万の兵を率いて百日あまり合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した. 215年、曹操配下の張遼が李典ともに精鋭兵800人を率いて合肥を包囲した呉軍を奇襲、打撃を与えて気勢を削ぎ、その後は7千ほどの兵力で籠城し、呉の10万の大軍を相手に守りきった. そして撤退中の呉軍に追撃をかけ、孫権を徹底的に追い詰めた(合肥の戦い). その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、恐れられたことから「遼来遼来」の言葉を生んだ.
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、呉からの攻撃も止むことはなかった. 230年代初頭に魏の満寵が老朽化した合肥城の北西側に「合肥新城」を築城する. 234年、呉の孫権が同城を攻撃してきた際には、魏の曹叡(明帝)が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている). 253年には呉の諸葛恪が攻撃するが、籠城の末にこれを撃退した.
その後隋初には合肥県に廬州が設置され、明清時代まで続いた. このため廬州の別称でも知られる.
1949年1月21日、国共内戦のさなか中国国民党軍を破った人民解放軍が合肥に入城、2月1日に県を廃して合肥市を建てた. 1952年8月25日安徽省人民政府が正式に成立し、合肥市に駐在するようになった.
合肥の歴史は古く、紀元前3世紀に秦が合肥県を置き、九江郡に属した.
後漢末期に曹操により派遣された揚州刺史の劉馥が整備し、曹操と孫権の係争地となる. 208年、孫権は10万の兵を率いて百日あまり合肥を攻撃したが、落とすことができずに撤退した. 215年、曹操配下の張遼が李典ともに精鋭兵800人を率いて合肥を包囲した呉軍を奇襲、打撃を与えて気勢を削ぎ、その後は7千ほどの兵力で籠城し、呉の10万の大軍を相手に守りきった. そして撤退中の呉軍に追撃をかけ、孫権を徹底的に追い詰めた(合肥の戦い). その後も張遼は呉軍を一切寄せ付けず、恐れられたことから「遼来遼来」の言葉を生んだ.
三国時代には魏の揚州経略の主要拠点となり、呉からの攻撃も止むことはなかった. 230年代初頭に魏の満寵が老朽化した合肥城の北西側に「合肥新城」を築城する. 234年、呉の孫権が同城を攻撃してきた際には、魏の曹叡(明帝)が親征を行ってこれを撃退した(現在も同地に合肥新城遺址が残されている). 253年には呉の諸葛恪が攻撃するが、籠城の末にこれを撃退した.
その後隋初には合肥県に廬州が設置され、明清時代まで続いた. このため廬州の別称でも知られる.
1949年1月21日、国共内戦のさなか中国国民党軍を破った人民解放軍が合肥に入城、2月1日に県を廃して合肥市を建てた. 1952年8月25日安徽省人民政府が正式に成立し、合肥市に駐在するようになった.