イズマイール (Izmail)
イズマイールは、ドナウ・デルタ最大のウクライナの港である. 食品加工業の中心であり、人気のある観光地でもある. また、ウクライナ海軍と、ウクライナ国家国境庁沿岸警備隊の基地がある. WWFが運営する自然公園が近接している.
現在の人口はおよそ85,000人と概算される. そのうちロシア系住民が43.7%で、ウクライナ人が38%、ベッサラビア・ブルガリア人が10%、モルドバ人が4.3%である.
イズマイールの要塞は、12世紀にジェノヴァ共和国の商人らによって建設された. 14世紀に短期間だけイズマイールはワラキアに属した. ドナウ北岸領土がバサラブ家(en:House of Basarab、ワラキア公を輩出した)の所領となったのである(バサラブという名が、ベッサラビアの由来となった). 町は最初、オスマン帝国の大宰相(en:Grand Vizier)から派生したシュミル(Şmil)であった. オスマン語の特徴であるiが付け足されている.
14世紀終わりから、イズマイールはモルダヴィア支配下に入った. 1484年、オスマン帝国がワラキア、モルダヴィアを攻め、黒海に近い部分を軍直轄領(1538年まで直接支配)とした. この時から16世紀初めまで、ブジャク地方にオスマン帝国の要塞が築かれた. 1569年、スルタン、セリム2世が、自身に従属するノガイ人(北カフカース出身)を定住させた.
1770年、ロシア帝国の将軍ニコライ・レプニーン(en:Nicholas Repnin)がイズマイール要塞を攻略後、2度と陥落しないようオスマン帝国により徹底して再強化された. スルタン自慢の要塞は難攻不落であるとされた. しかし露土戦争(1787年-1792年)の最中、ロシア帝国軍司令官アレクサンドル・スヴォーロフが1790年12月22日に急襲した. 要塞内部に立てこもったオスマン帝国軍は、ロシアからの最後通牒を受けて、屈服した. この敗北はオスマン帝国の悲劇的結末であり、ロシア側はこの地で初めて国歌Grom pobedy, razdavaysya!を歌ったのである.
1791年、アレクサンドル・スヴォーロフはイズマイール陥落を女帝エカチェリーナ2世に報告した. イズマイールに住むムスリムたちは、女も子供も容赦なく、家から家、部屋から部屋へと強襲された. 3日間の統制の効かない虐殺で、40,000人ともいうトルコ人が殺され、数百人が囚われの身となった. スヴォーロフは虚勢をはり、のちにイギリス人旅行者に対し、『虐殺が起こったとき、私は自分のテントへ行ってむせび泣いた. 』と語った.
戦後、イズマイールはオスマン帝国へ返還されたが、ロシア軍は1809年9月14日に取り戻した. 1812年のブカレスト条約でベッサラビアとともにイズマイールはロシア帝国に併合された. 町はそれから再建された. 大聖堂(1822年-1836年)、救世主降誕教会(1823年)、聖ニコライ教会(1833年)など、多くの建物がこの時代に建てられた. イズマイール最古の建物は、小さなモスクで、15世紀か16世紀に建てられた. モスクは1810年に教会に変えられ、現在は1790年のイズマイール急襲を記念する博物館となっている.
ロシアがクリミア戦争で敗退すると、町はモルダヴィア公国に併合され、すぐ後にドナウ公国(モルダヴィア=ワラキア合同公国)の支配下に入った. ロシアは露土戦争(1877年-1878年)の後にイズマイールの支配を取り戻した. 1918年にロシア帝国が崩壊した時には、ルーマニア軍に一時占領された. 1918年から1940年まで、イズマイールはベッサラビアとともに、ルーマニア王国の一部であった.
第二次世界大戦中の1940年、再びイズマイールはソビエト連邦の赤軍に占領され、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に併合された. しかし、イズマイール周辺地域は、バルバロッサ作戦に派兵したルーマニア軍が1941年から支配した. 1944年に奪回された後、ソ連時代には多くのロシア人とウクライナ人がイズマイールに移住し、次第に民族構成が変化していった. イズマイール州は1940年につくられ、1954年にオデッサ州と合併するまで、州都はイズマイールにあった. 1991年8月24日から、イズマイールは独立したウクライナの一部となっている.