プノンペン (Phnom Penh)
カンボジアの行政、文化、経済の中心地で、「東洋のパリ」と謳われたフランス植民地時代の美しい街並みが残っている. また、王宮があり、カンボジア国王一家が住んでいる.
プノンペンという名はクメール語で「ペン(夫人)の丘」という意味である. ペン夫人は信心深い女性で、川を流れてきた仏像を見つけ、近くの丘に祠を作り仏像を手厚く祀ったことから「プノンペン」と名付けられ、それが町の名前になった. その丘はワット・プノン(Wat Phnom)と名づけられ、ペン夫人の像や仏塔が立っている.
13世紀 ジャヤヴァルマン7世の時代、ワット・ウナロムの地に寺院が建立されている. 1431年シャムの度重なる侵攻により時の王ポニェ・ヤートはアンコール・トムからコンポンチャム州のスレイ・サントーに遷都したが、あまりに河川の氾濫たびたび起こるのでプノンペンに再遷都したという. 15-16世紀はプノンペン、ロンヴァェクと首都も転々とした.
16世紀、四つの大河の出会う場所、すなわちチャット・ムック(「四つの川=四つの顔」を意味する. 「四つの腕」という解釈も知られるが間違い)の名で知られたプノンペンは交易がさかんな町ではあったが湿地帯だった. スペイン人やオランダ人、あるいは華僑や日本人が貿易で多数往来していた. 彼らはカンボジア王室の内紛に介入したりもしていたという.
1866年王宮建設、ウドンからプノンペンに遷都を行った.
1920年代、"アジアの真珠" として知られる. プノンペン国際空港建設.
1953年のカンボジア独立以来1960年代までは隣国の内戦をよそに表面的な平和を保ち、プノンペンは「東洋のパリ」としてその美しさと治安のよさを称えられていた.
1970年のロン・ノルによる軍事クーデターにより、アメリカがカンボジアに軍事介入し、共産勢力を攻撃するために農村部に爆撃を開始した. そのため農業ができなくなった農民たちが、アメリカからの空輸食料を求めて首都に集結せざるを得なくなり、1975年ロン・ノル政権末期にはプノンペンの人口は200万人を超えていたといわれている.
1975年4月17日、クメール・ルージュによりプノンペンは陥落した. 最初は市民に歓迎ムードで迎えられたクメール・ルージュであるが、アメリカが爆撃に来るなどと市民を偽り、あるいは暴力をもって強制的に市民を各方面へと放逐した. この過程で抵抗して射殺されたり、自殺したり病人、老人や子供、妊婦など数万人が犠牲となったといわれている.