ドゥシャンベ (Dushanbe)
ドゥシャンベの地は紀元前5世紀の遺跡も残る古くからの定住地であるが、19世紀まで町というより村という程度の規模でしかなかった. ロシア革命後、ボリシェヴィキの影響が中央アジアに及んでくると、タジク人・ウズベク人反革命軍の拠点となる. ブハラ・アミール国(マンギト朝)の最後のアミール、アーリム・ハーンはこの地に逃げ込んだ. (その後、カーブルに亡命). 1922年、ドゥシャンベは赤軍の手に落ちた. 1925年には村から町へ行政上、昇格し、タジク自治ソビエト社会主義共和国の行政府が置かれた.
中央アジアのソビエト連邦領が民族境界によって各共和国に区分されると、1929年にドゥシャンベの一帯はタジク・ソビエト社会主義共和国となり、その首都に指定され、スターリンにちなんで「スターリナバード」となった. 1961年、ニキータ・フルシチョフのスターリン批判で、ドゥシャンベの名に戻される.
ソ連時代、この地方は綿花や絹の大生産地に変えられ、ソ連中から人々が移住させられた. タジク人も地方から流入、人口が急速に増える.
アゼルバイジャンで起きた反アルメニア暴動(スムガイトポグロム)から逃れた亡命アルメニア人がタジキスタンに移住する、という噂から、1990年、住宅難のタジク人の間で、ドゥシャンベ暴動が起こった. ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカと時期を同じくしたため、南コーカサスや中央アジアでの民族主義増大に繋がった. 1992年からのタジキスタン内戦で市は甚大な被害を受けるが、今日ではタジキスタンの首都として近代化が急速に進んでいる.