トビリシ (Tbilisi)
ジョージアの東部、クラ川の河畔に広がる. 三方を山や小高い丘に囲まれている.
紀元前4000年ごろの居住跡が確認されている. すでに4世紀のペルシア史料に、この地域に集落があったことが言及されている. 今も市内に一部が残るナリカラ砦はこの頃に造られたものである. その後、5世紀にカルトリ(後にイベリア王国とも言われた)の王ワフタング・ゴルガサリ(ワフタング1世)がここに町をつくり、王の死後、息子のが遺訓に従い、6世紀の初めにムツヘタから遷都した. 統一したグルジア王国の都ではなく、コルキスを含まない東グルジア(カルトリ)の都であった. ワフタング・ゴルガサリ王がこの地を発見したのには、有名な言い伝えが残っている. 王が狩に出かけ、鷹を飛ばした. 鷹は雉を追いかけて飛んでいったが、鷹も雉も行方不明となった. 従者たちが探し回ると鷹も雉もアバノツバニにある温泉の中に落ちていた. 温泉を発見したワフタング・ゴルガサリはそれをとても気に入り、この地に町を作るように命じた、という. グルジア語の古語で"Tpili"とは「暖かい」という意味で、それがトビリシの語源である.
570年以降、サーサーン朝ペルシアに征服され、627年に、東ローマ帝国とハザールの連合軍が陥落させた. 736年にはカリフ・マルワーン2世に率いられたウマイヤ朝の軍が進入. 以後、としてアラブ人に支配される. 1068年、スルターン・アルプ・アルスラーンの下、セルジューク朝の侵略を受ける. 1122年に、セルジュークとの激しい戦闘に勝利し、ダヴィド4世(ダヴィト建設王)がトビリシを解放してグルジアを統一. 西グルジアのクタイシからトビリシに遷都し、全グルジアの首都となり王国の領土は拡大し繁栄の道を進む. タマル女王のもとで黄金時代を迎える. しかし1世紀で終わりを告げる. 1226年、ホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーン・メングベルディーの侵攻を受け、1236年にはモンゴルの統治下に入る. モンゴル支配下のトビリシは自治を享受できた時代であった. 14世紀から18世紀にかけて、ティムールやタブリーズのシャー、白羊朝、など入れ替わり来襲を受ける. 1522年、サファヴィー朝イランの侵攻を受けるもに解放される. この時期は荒廃したトビリシの再建の時代であった. 1795年、イランのアーガー・モハンマド・シャーの軍勢の前に、トビリシは灰燼に帰す. もはや、イランやトルコの侵攻の前に為す術も持たないグルジアは、ロシア帝国の庇護を求め、1801年、帝政ロシアに編入された. トビリシには総督府が置かれ、カフカース(コーカサス)支配の拠点となった. その間、都市は大きく発展し、近代ヨーロッパ的な町並みが形成される. 1811年には8500人であった人口は、1825年には2万人になったという. 19世紀末にはトリビシ・ポチ線、パトゥミ・トリビシ・バグー線の鉄道敷設で交通の要衝となった. 当時ペルシャ、オスマン、スウェーデン、ベルギーの公館も建ち、国際都市の様相を呈した. アレクサンドル・プーシキンやレフ・トルストイが幾たびも訪れ、ロマノフ朝の王族の屋敷も市内に作られた. 1918年にグルジアが独立した際、トビリシはグルジア民主共和国(1918年-1921年)の首都となる. 以後、グルジア・ソビエト社会主義共和国(1921年 - 1922年、1936年 - 1991年)、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(1922年 - 1936年)の首都を経て1991年にジョージアが再び独立を果たして以後、今日まで同国の首都である.
地図 - トビリシ (Tbilisi)
国 - ジョージア (国)
ジョージアの国旗 |
サカルトヴェロ民主共和国が1921年にソビエト連邦に占領され、ソビエト連邦構成共和国のグルジア社会主義共和国(正称:サカルトベロ・ソビエト社会主義共和国)とされたが、ソビエト連邦の崩壊に伴い1991年4月に共和国として独立を回復した.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
---|---|---|---|
GEL | ラリ (Georgian lari) | ₾ | 2 |