ディムヤート (Damietta Governorate)
ナイル川へと続く運河が流れており、エジプトの重要な港町の一つとして数えられている. 大規模な液化天然ガスの工場も擁する.
古代マケドニアのアレクサンドロス大王に征服される以前、タミアット(Tamiat)と呼ばれていたディムヤートは、古代エジプトの主要都市であった. ところが、エジプト征服後にアレクサンドリアが置かれると、ディムヤートはその重要性を失っていった.
ディムヤートが再び歴史の表舞台に現れるのは12世紀から13世紀、十字軍がイスラーム世界に侵略を始めた頃である. 1169年、ビザンツ帝国の援助を受けたエルサレム王国の艦隊がディムヤートを襲ったのである. だがこの襲撃は、サラーフッディーン(サラディン)により撃退された.
第5回十字軍(1217年 - 1221年)に向けて、キリスト教徒はディムヤート奪取を戦略の中心に据えた. ディムヤートを奪うことで、ナイル川流域を支配し、ひいてはエジプトを征服できると考えたからである. 1218年5月、十字軍はディムヤートを包囲した. 1219年11月、十字軍はディムヤートの奪取に成功する. しかし1221年8月、ディムヤートに少数の兵を残してカイロへ遠征に向かった十字軍が、マンスール近郊でアイユーブ朝のスルタンであるアル=カーミル(サラディンの甥)に水攻めに遭って包囲されると、十字軍はディムヤート返還を条件に降伏する. 十字軍は、再びディムヤートから追い出された.
フランス王ルイ9世が主導した第7回十字軍においても、ディムヤートはキリスト教徒の攻略対象となった. 1249年6月、ルイ9世の率いる艦隊が到着すると、間もなくディムヤートは陥落した. 同年11月にはカイロへ遠征に向かうが、1250年2月にマンスーラの戦いでバイバルスの軍隊に敗れる. ルイ9世たちは撤退するところへ追撃を受け、ルイ9世以下キリスト教徒勢は全員捕虜になった. ディムヤートを含む占領地の放棄と身代金の支払いという要求を飲み、十字軍は三度ディムヤートから追い出された.
このようにディムヤートは戦略の要衝だったので、マムルーク朝のスルタンとなったバイバルス(前述の将軍バイバルスと同一人物)は、防御の脆弱だったディムヤートを一旦破壊した. その上で、ナイル川から数キロしか離れていない位置に、防御機能を存分に持つ町を再建した.
地図 - ディムヤート (Damietta Governorate)
地図
国 - アラブ連合共和国
エジプトの国旗 |
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
---|---|---|---|
EGP | エジプト・ポンド (Egyptian pound) | £ or جم | 2 |