サラエヴォ (Sarajevo)
日本語表記においては、一般に「サラエボ」 や「サライェヴォ」 などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする. 呼称と表記も参照).
2011年8月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は併せて311,161人である. サラエヴォはまた、サラエヴォ県の県都でもある. サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川周辺に広がっている. サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた. 旅行ガイドブックのロンリープラネットでは、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている. これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市であるドゥブロヴニクの59位、リュブリャナの84位、ブレッドの90位、ベオグラードの113位、ザグレブの135位を上回る.
サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるスルプスカ共和国の首都であるイストチノ・サラエヴォ(東サラエヴォ)がある. 現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前のサラエヴォの市域の一部が含まれている.
この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった. オーストリア=ハンガリー帝国に併合されたのちもボスニアの州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった. 1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた. 1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、さらに後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた. 現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある. サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている. サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である.
町はボスニア・ヘルツェゴビナの3つの公用語・ボスニア語、セルビア語、クロアチア語でサラエヴォ (Sarajevo / Сарајево) と呼ばれる. また、トルコ語ではサライボスナ (Saraybosna) と呼ばれている. サラエヴォの呼称は、トルコ語で「宮殿」を意味する「サライ」(Saray) を語源としており 、この街がオスマン帝国支配下にあったころから重要な都市であることを示唆している. 日本語においては、「サラエヴォ」という表記の他にも、「サラェヴォ」、「サライェヴォ」(原音ベース)、「サライエヴォ」、「サラエボ」(簡略化)、「サラェボ」、「サライェボ」、「サライエボ」 といった表記も見られる.