広州市 (Guangzhou)
広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている. 2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円) であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される. 地下鉄、高速道路網が発達している.
北京市、上海市、深圳市と共に「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある. アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界63位の都市と評価された. 中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である.
古代の百越の地. 秦の始皇帝が中国を統一して現在の広州に南海郡番禺県を設置したのが始まり. 秦帝国の崩壊後、趙佗が南越国を樹立して自立したが、前漢の武帝によって滅ぼされた. 漢代には交州に属し、三国呉が広州を分置した. 古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、唐代半ばの741年には最初の市舶司が設置され、多数のイスラム教徒やユダヤ人やゾロアスター教徒が訪れ、外国人居留区である蕃坊もおかれたが、アブー・ザイド(Abu Zayd Hasan As-Sirafi)の『東邦誌』によると878年の広州大虐殺でコミュニティーが消滅した. 唐末の黄巣の乱に際して襲撃を受けて多大な打撃を受けたが復興し、五代十国時代には南漢王国の首都となった. 海禁政策を取った明代でも広州は南海諸国の朝貢船入港地となり、清代半ばの1757年からは広州のみが対外開放されて欧米諸国と広東貿易が行われた. この構図は近代に入り西欧列強の圧力に屈するまで続く.
阿片戦争中の1841年には一時イギリス軍に占領され、1911年には孫文が広州蜂起を行い、辛亥革命の先駆けとなった. 袁世凱の没落後、孫文は1921年に越秀山南麓で非常(時期)大総統に就任した. 1924年には軍閥割拠の中国を統一するため国共合作を行い、黄埔軍官学校を設立、蔣介石が校長となり、周恩来が政治部主任を務めた. この時期には毛沢東も農民運動講習会をこの地で開催している. 孫文没後、蔣介石の国民党は共産党と決裂し、1927年共産党は広州コミューンを樹立したが、間もなく国民党軍の攻撃を受けた(広州起義). 蔣介石は1928年に首都を南京に移転している. 1938年日本軍が占領. 終戦まで占領状態が維持される.
中華人民共和国成立後も香港に近い広州は中国の対外貿易港として機能し、毎年春秋には広州交易会(カントン・フェアー)が開催され続けている. 1979年、鄧小平が対外経済開放政策を取ると、深圳市・珠海の経済特区を経済圏に収める広州は経済的に急速に発展を遂げた. しかし、多数の人口が農村から流入し、治安の悪化が社会問題となっている.