イギリス領北ボルネオ (Sabah)
ボルネオとは、マレー系王朝ではあるもののマラッカ王国など半島部分とは、別の王朝として古くからこの島に存在したブルネイ王国に由来する名称で、ブルネイのスルタンより内戦鎮圧の功績を認められた白人入植者が独自の領土を与えられたことに始まる. 他のアジア地域における英仏系植民地と異なる出自を持つこの地域は、次第に英国本国から離れ、徐々にブルネイから領土を削り取ることに成功し、19世紀中頃には独自の異民族による住民統治という個人国家を建設した「白人王」ジェームズ・ブルックによって領地の独立が試みられた. これは最終的に成功し、1846年、現在のサラワク州付近にサラワク王国が設立され、当時の欧米列強や大日本帝国および清朝・中華民国もシーレーンの要衝にあたる同国を国家承認した.
このサラワク王国の地域の北に、中小規模な領土のみが残ったブルネイ・ダルサラーム王国を挟み、北に拡がるサバ州はイギリス東インド会社の直轄植民地とされた. このサバ州の部分を「英領北ボルネオ」と呼んだ. このボルネオ島北部が3等分された状態は20世紀に入っても変わらず、当時はマレー半島とシンガポールおよび北ボルネオが英国植民地であり、この地域の独立国はシャム王国(現在のタイ王国)を除いて存在しない時期であった. ボルネオ島ではブルネイ王国と、事実上の島の支配者であり、一時はブルネイのスルタン以上の権力を誇っていた白人王朝サラワク王国と駐留英国軍が握っていた.
この後1941年まで、3代にわたり続いたジェームス・ブルックの世襲王朝(英領南ボルネオ地域サラワク王国)は、第二次大戦中にシンガポールでの無条件降伏をもって英国東洋艦隊を無力化し、その後オランダ領東インドのボルネオ(現在のインドネシア領カリマンタン地域)も含めて白人利権を追放した日本軍によって解体され、第3代白人王ヴァイナー・ブルックは、軍政下から交渉によってオーストラリアに亡命、王は日本軍が撤退した戦後もサラワク王国への帰国を望まず、そのままオーストラリアで市民権を得た. 旧サラワク王国は英領北ボルネオに統治権を譲り、英領北ボルネオがサラワク地方も併せて統治するようになり、この状態は1945年以降も続いた.
その後、この地域はクアラルンプールを首都とするマレー半島部分と同じ国家として統合される運びとなり、各州にスルタンを置く連邦制を採用した立憲君主制連邦国家マレーシア連邦の建国によって、現在の形であるマレーシア連邦サバ州およびサラワク州(ブルネイ王国は英連邦加盟独立国として残存)となったが、いずれも英連邦加盟国家であり、英国軍やオーストラリア軍などと共に集団的安全保障体制を敷いている.