クレーヴェン (Klevan)
この地域に集落ができたのは12世紀の初頭であり、プリピャチ川の支流ホルィニ川のさらに支流、Stubla川のほとりに人が住み始めたことである. 文献上の初出は1458年で 、チャルトリスキ家の所有地としての記録である. 1654年にマクデブルク法が採用された.
クレーヴェンを含むこの地域は歴史的にヴォルィーニと呼ばれている. ヴォルィーニは強国ロシア、ポーランドの両国の間にあったため、クレーヴェンもたびたび属する国が変わった. ヴォルィーニの他集落同様、クレーヴェンにはユダヤ人の集落があった. 1920年からはポーランドに属し、1929年にポーランドで出されたガイドブックには「ユダヤ人が1300人住む」と書かれている.
第二次世界大戦が始まると、1939年からはソビエト連邦に属し、1940年に都市型集落の扱いとなった. 1941年に独ソ戦が始まると一時ナチス・ドイツの支配下となり、シナゴーグ(ユダヤ教の集会場)焼き討ちとユダヤ人虐殺事件が発生している. また、クレーヴェンは第二次世界大戦以後に始まったパルチザン活動、ウクライナ蜂起軍の中心地域の一つになった.
クレーヴェンにはポーランド人も住んでいたが、第二次世界大戦直後に行われたヴィスワ作戦の一環で強制移転させられた. 1979年の人口は8,400人だった.