オーランド諸島 (Åland Islands)
なお、オーランド諸島はフィンランド領の一部であるが歴史的経緯から非武装中立が国際条約により義務づけられている地域である.
オーランド諸島はフィンランドの一地方としてスウェーデン王国に帰属していたが、1809年にロシア帝国との第二次ロシア・スウェーデン戦争に敗れたことからフィンランドが割譲されたため、オーランド諸島もフィンランド大公国の一部としてロシア領となった.
1854年にクリミア戦争に参戦したイギリス・フランスはスウェーデンの参戦を確実にするため艦隊を派遣して同地のロシア軍を攻撃するが、これに対してロシアは、を雇い、新兵器の機雷を使ってバルト海を封鎖する. 被害拡大を憂慮したスウェーデン政府は中立政策を取ったが、英仏政府はさらなる参戦を促した. クリミア半島でのロシアの敗勢を見たスウェーデン政府はようやく参戦の意志を顕したが、すでに戦争は終結に向かっていた.
1856年のパリ講和条約によって、国境地帯であったオーランドは非武装地帯に指定された. しかし第一次世界大戦の勃発とともにロシアは条約に違反してオーランドの要塞化を開始した.
大戦末期になるとフィンランド本土においてロシアからの独立の気運が高まり、これと並行するようにオーランドにおいてもフィンランドからの分離とスウェーデンへの再帰属を求める運動が起こり、フィンランド独立間近の1917年には、オーランドの代表がスウェーデンへの統合を求める嘆願をスウェーデン王に提出するに至る. オーランド分離を阻止すべく、1920年にフィンランドはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させるも、オーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、両国間の緊張が高まる結果となった. このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の裁定を託し、フィンランドもこれに同意した.
1921年に、国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造を中心として、オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めたいわゆる「新渡戸裁定」が示された. これらは両国政府の具体化作業と国際連盟の承認の後、1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立した.
現在フィンランド政府によって、スウェーデンへの復帰を認められているが、帰属国を問う住民投票では現状を望む人が半数を超える. スウェーデンに復帰すれば一つの県にすぎないが、フィンランドのもとでは大幅な住民自治を認められ、海洋地域であるオーランドにとって非常に自由が利くからだとされる. また、現在ではスウェーデンとフィンランドは共にシェンゲン協定加盟国であり、国境を意識せず自由に往来が可能であるという事情もある. スウェーデンのストックホルムとフィンランドのヘルシンキ、トゥルクを結ぶフェリーのほとんどが主都マリエハムンの港に寄港する. 距離的にはフィンランドよりスウェーデンのほうが近く、諸島の最西部と対岸のスウェーデンを結ぶ最短距離の航路だと、所要時間は2時間ほどである. また、航空便もストックホルムとヘルシンキ、トゥルクから飛んでいる.