現在使われていない歴史的な旗『Flags of the Maritime Nations, 5th.ed., Bureau of Navigation, Secretary of the Navy, Washington.D.C., july 1882』に収録された「Corea」の「ensign」。49ヶ国150旗の1つとして掲載されている。2003年にソウルの古書店ARTBANKが入手した。その刊行年が正しければ、現存する資料の中で最も早く太極旗を伝えたものとなる。]]
朝鮮の国旗として用いられた旗を最初に確認することができるのは、1882年9月に朴泳孝が訪日した時である。同年7月の壬午事変を機に、李氏朝鮮は日本との間で済物浦条約を締結し、その規定に従い謝罪の使節(特命全権大使兼朝鮮修信使)として朴泳孝らを日本へ派遣した。その際、朴泳孝は約4ヶ月間に渡る訪日中の出来事を日記(『使和記略』)として記しており、その中に太極旗の図案変更の経緯に関する記述がある。『使和記略』によると、9月20日(旧暦8月9日)に仁川から日本船籍の明治丸に乗り日本へと向かった朴泳孝らは、当初馬建忠が提唱した太極文様の周りに八卦を描いた太極図の旗を持っていた。しかし、朴泳孝が船内でイギリス領事のW. G. アストンとイギリス人船長ジェームスに対し、八卦と太極文様を描いた太極図を見せ国旗としての出来について相談した所、船長から「八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便である」と助言を受けた。そのため、朴泳孝は八卦から四卦を削り、残りの四卦を45°傾けて四隅に配した図案を提案し、船中で大・中・小3本の太極旗を作ったという。9月25日(8月14日)に神戸へ到着した一行は宿泊先の西村屋で初めて完成した太極旗を掲げ、10月3日(8月22日)には太極旗小本と共に国旗制定を本国に報告したとされる 。
ただし、日本の日刊新聞「時事新報」は1882年10月2日付の紙面でこの太極旗を紹介しているが、太極旗を国旗とした経緯について『清国問答』とは異なる内容を掲載している。また、2004年に発見された1882年7月発行の冊子『海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations) 第5版 にはCorea(朝鮮)の「ensign」(エンサイン)として太極の印と四つの卦から成る旗が収録されており、『使和記略』に描かれた太極旗制定の経緯(1882年9月)と時期が合わない。韓国では、「『海上国家の旗』の「ensign」は李應浚が創案して米朝修好通商条約の締結式で使われた朝鮮初の国旗である。」と民間の研究者が主張しており 、韓国を代表する百科事典である斗山世界大百科事典は「江華島条約締結後、李朝は1881年に忠清道の観察使だった李淙遠(이종원)が提出した太極八卦の図式を最初の国旗に定めた。だが、実際に初めて使用された太極旗は、米朝修好通商条約(1882年)の際に通訳の李應浚が金弘集の命を受け作成したものである。」としている 。韓国政府(行政自治部)も「ensign」を太極旗の原型であると推定している が、『海上国家の旗』には旗の図柄しか掲載されていない上、朝鮮側でも関連史料が見つかっていない為、「ensign」の制定時期や制定の由来・使用方法については一切が推測の域を出ていない。