ラーオ語

ラーオ語
ラーオ語(ラーオご、ພາສາລາວ ラオ語、ラオス語とも)は、タイ・カダイ語族に属する言語. ラオスの公用語である.

ラーオ語は、純粋言語学的にはタイ語と同一言語の地域変種の関係にある. また、ラオス人の多くはテレビなどのメディアを通じてタイ語を習得し、ラーオ語の一部にタイ語を混ぜて使用している. そのため、ラーオ語話者とタイ語話者はある程度の意思疎通が可能である. しかし、タイ人の中でも特に中部から南部地方のタイ人にとって、ラーオ語を即座に理解するのは困難である. ラオスは、独立国家であり、ラーオ語(タイ語群からみるラーオ変種)はタイ語(タイ変種)と政治的には同レベルの「国家公用語の地位」にある. そのため、ラーオ語はタイ語との差異を一層大きくしている.

ラーオ語の表記には、タイ文字と起源を共有するが字形の異なるラーオ文字が用いられる. ラーオ語の表記は表音的表記法を用い、語源的表記を用いるタイ語との差異をできるだけ際立たせるようになっている. これは元来ラーオ言語変種の表記が、タイ言語変種の表記よりも表音的で、字母数が少なかったことに由来する.

言語学者のターオ・ボンが現代のラーオ語正書法の基礎を築いた. それ以前は、フランス植民地政府(1893–1953)時代の言語学者は、タイ語と同様の語源的表記をしていないことをもって「サンスクリット・パーリ語の語彙を保全していない」と評価し、「劣等言語」である証としていた. ターオ・ボンは、「タイ語同様語源的表記を行うため、字母の追加を行うべき」とする意見を「盲目的にシャム(後のタイ王国)の正書法に事大する必要などない」、「純粋に音に従った表記こそ最適」と批判した. さらに、「字母数の少ない表音的表記を取っていることこそラーオ語の表記がタイ語のそれに対して優越している証」と見なした.

タイ語とラーオ語は純粋言語学的には同一言語の地域変種である. 社会言語学的・政治的には、両者とも独立した正書法をもち、その正書法を強制できる力をもつ領域国家により支えられているために、異なる言語として扱われる. 特に、ラオスではタイからの政治的・文化的影響力を遮断し、国家の自立を守るという意図から、政治的なプロパガンダにより、「ラーオ語はタイ語からは分離している」として、積極的に分離の歴史を作り上げてきた.

「ラーオ」とはラーオ語でラーオ族という意味である. 日本では、国名から、ラオス語、またはラオ語がよく使われる.

ラオスでは、でも不就学のためにラオス語の読み書きができない人たちも多い. 社会の急激な変化に伴い、日常生活の様々な場面でラオス語教育を必要とするようになっている.

  • ラオス
    ラオス人民民主共和国 (ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、ສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ、Lao People's Democratic Republic )、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する社会主義共和制国家. 首都はヴィエンチャン. 24万平方キロメートルに約50の民族からなる約710万人(2019年時点)の国民が暮らす. 東南アジア唯一の内陸国 で、北は中華人民共和国(中国)、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ王国、北西でミャンマーと国境を接する. ラオス人民革命党による一党独裁体制が敷かれている 他、フランコフォニー国際機関の加盟国である.

    1353年にラオ人最初の統一国家であるランサン王国が成立. 18世紀初めに3王国に分裂. 1770年代末に3王国はタイに支配されたが 、1893年にフランスがタイにラオスへの宗主権を放棄させて植民地化し、1899年にフランス領インドシナ(仏印)に編入された. この時に現在の領域がほぼ定まった. 第二次世界大戦中の日本軍による仏印進駐や第一次インドシナ戦争などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で1949年にフランス連合内でラオス王国として独立、ついで1953年に完全独立した. その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した.